こんばんは。時計店の白王店主です。
書き手としてあるまじきかもしれませんが、
私は物事を単純明解に書くのを嫌がります。
単純明快な説明は、
”少ない単語で”
”誤解なく”
かつ
”人の心に刺さる多層的な表現”
でないといけないと考えています。
まだ私の経歴や知見程度では、その”わかりやすさ”が却って表層的に伝わりがちだと自覚しています。
安易でメッセージ性の強い表現は、
『わかったような気にさせる』危険があるとも思います。
私はこれを 未必の詐欺と呼んでいます。笑
また同時に、誰もが口にできる言葉をこのコラムで反芻しても意味がないと考えています。
ですので当店コラムでは敢えて洗練され切った表現は避け、言葉を尽くして(長ったらしい)主観を残すようにしています。
※ちなみに店主の昔の仕事は『専門的な内容を誰にでも伝わる誤解のない文書にする』でした…。
今回も前置きが長くなりました。
ヴィンテージ時計店を経営していて、ふと”エイジングとは何か”と考えることがあります。
歴史を重ねてボロボロになっているのに、あの内面から湧きたつような魅力はどこから来るのでしょうか?
理屈を超越したものでしょうか?
それともただの刷り込みでしょうか?

例えば、アンティークやヴィンテージ品の価値を否定する側から、よくこのような意見があります。
『ヴィンテージって、要は使い古された中古品のことでしょ?』
『エイジングなんて、ただの劣化を都合よく言い換えているだけ』
ある意味とてもわかりやすい意見です。
一つの真理だとも思います。
ただ元々アンティーク品が好きな私には、この表現はあまりしっくりきませんでした。
老練な紳士を『年寄りのジジイ』と表現するような短絡さ、というべきでしょうか。

店主は、ヴィンテージ品の魅力は俳句表現みたいなものだ。
と考えています。
俳句は、一句=約17文字で世界観を表現します。
決して短絡的であってはいけません。
たった一句で様々な情景や感情を想像させる奥深さに、ヴィンテージ品との類似性を感じます。
店主が最も好きな俳句作品に、松尾芭蕉の一句があります。
『夏草や兵(つわもの)どもが夢のあと』
芭蕉が旅の終着点の城跡(岩手の平泉)で詠んだとされる句です。
表向きは
『かつて栄えた者共が今となっては滅び、そこにはただ草木が生い茂るだけで何も残っていない』
死んだら終わり、盛者必衰の句とも読めます。
しかしその裏には、芭蕉の極めて複雑な情緒が表現されていると言えます。
命を賭して壮絶に戦った者たちへ情念や尊敬、
ボロボロになって死んでいった不遇さや無情さ、
勇ましさへの畏怖、
夢を果たせなかった者への無念の想い、憂い、労い。
今となっては穏やかに時が流れ、
城跡にうっそうと草木が生い茂るひと夏の瞬間に、
彼ら=つわものどもの命の煌めきを確かに感じ、
慈しみ、胸を締め付けられ、
心を深く揺り動かされた芭蕉の想いが見て取れます。
一見もう何も残っていないようで、彼らの残した”何か”を確かに感じ取ったからこそ、芭蕉はこの句を詠んだ(詠めた)のだと思います。
人生で幾度と無く挫折を味わい、ビリビリに夢破れた店主にとって非常に響く句です。
この句の表向き?の解釈のように
『あーあ』
『無駄だったね』
『もう見る影もないね』
と諦めたり、軽んじたり、捨てることは簡単です。
ヴィンテージ品も同じです。
かつて『古くて使えない』『価値がない』
と表面的に切って捨てられてきたモノ、
人知れず滅んでいくはずだったモノに目を向け、
新たな命や価値を吹き込み、再び感動を蘇らせることができるのは後世の我々だけです。
そのくたびれた外観に得も言われぬ深みを感じ取り、
そこから美だったり格好良さだったり、温かさだったり、
胸を締め付けられるような儚さだったり、過去の持ち主を想像したり、よくわからないが多層的な感情を抱く。
そんな抽象的で主観的な感動を感じとった瞬間、
ただのくたびれたモノが意味ある『エイジング』になるのだと思います。

滅びゆくものから美しさを感じ取っている、ともいうべきでしょうか。
人が生み出したものは、どんなものでも必ず傷みます。
生まれた瞬間から滅びに向かっていきます。
だからこそ直したり、綺麗に掃除したり、手入れしたり、少しでも長く付き合えるよう一生懸命手を尽くします。
そのモノが現代に存在する事実が、そのモノに携わった人が生きた証であり、奇跡であると感じるからこそ、今あるモノを後世に遺していきたいと白王店主は考えています。
白王店主
※当コラムは
WhiteKingsにて6/7に掲載したコラム【コラム】 時を経て生まれる美しさと主観の美学をArti Journal用に再編した内容となります。